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過去の講座を紹介します

環境情報活動センターでは、毎月2~3の環境学習講座を開催しています。リサイクル講座・木の実などを使ったクラフト講座・自然観察などのフィールドワーク・夏休み子ども講座・環境教養講座など、多彩な内容でお送りしています。 このコーナーでは、講座のレポートを掲載していきます。(過去の講座を紹介しますのトップへ戻る

江戸時代の公園、御殿山

カテゴリ:平成30年度

投稿日:2019年03月11日

  2月24日(日)品川歴史館において、環境学習講座「江戸時代の公園、御殿山」が開催されました。講師は品川歴史館学芸員の佐藤友理さんです。
桜の名所として栄えた御殿山の変化を、江戸時代を中心に、資料やスライドをもとに解説して頂きました。

   

  御殿山には土を削っている場所が二か所あります。ひとつが線路、もうひとつが江戸時代に土を削っている土取り場であります。この二つは御殿山の環境を考える上で大変重要なところといえます。今回、この講座ではこの二つを中心に話が進みました。
 桜の名所としての印象が強い御殿山ですが、桜の名所となったのは江戸時代になってからであって、中世の御殿山は葬送の場としての供養・信仰の場という性格が強かったのではないかと考えられます。

品川御殿
  御殿山というと思い浮かぶ人物は太田道灌で、長禄〈1457~60〉の頃、太田道灌がこの地に館を築き居住したといわれています。
御殿山の名称は、江戸時代初期に品川御殿と呼ばれる将軍の館が設けられたことに由来するとされます。御殿は将軍の鷹狩などの際に休憩する場所として造られたもので、海を一望できる立地にあり軍事的な防御拠点としての性格もあったのではないかと考えられています。三代将軍家光は茶会や鷹狩、また馬揃えなどのために度々ここを訪れ使用しています。しかし、元禄15年(1702)の四谷より出火した火事によって焼失、その後、再建されることなく廃止となります。           

削られる御殿山
 御殿山は宝暦9年(1759)に江戸城二の丸築造のための土取り場として設定されました。また、天保9年(1838)には江戸城西の丸が焼失し、焦土の代わりに御殿山の新土を運ぶことになりました。この地の土を掘った際に、松浦静山「甲子夜話」によると、御殿山土中より古甕、五輪塔、石棺、板碑が多数出土しているといいます。このことからも御殿山がかつては葬送の場であったことが窺えます。
嘉永7年(1854)には、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求があり、江戸湾防衛のために砲台を建設することとなり、埋立てに必要な土を御殿山などから削りとりました。また、明治5年(1872)には新橋・横浜間の鉄道が開通しました。江戸城の普請、御台場砲台築造のための土取り、そして鉄道の開通と御殿山の環境は時代の流れとともに劇的な変化を遂げました。

                          
御殿山の性格の移り変わり
 中世までの御殿山は信仰の場、葬送の地としての性格がありました。江戸時代の初めには品川御殿が造られ、また軍事的な場所として利用されてきましたが、江戸時代中頃には桜の名所へと変わりました。おそらく、江戸時代中期は政治的にも安定していて、軍事的要素が必要とされなくなった時代で、品川御殿山も軍事的拠点である必要性がなくなっていったのかも知れません。ある意味御殿山は平和な時代を反映する場所であったと言えるかも知れません。そういう意味で桜の名所として御殿山が一般開放されたと言えます。

しかし、幕末には開国を迫られ、再び政治的、軍事的場所へ戻っていきました。そして明治の初めには再び桜の名所となり、さらに明治の終わりには四人の個人が所有し、公園としての性格は失われたものの、江戸時代に公園として整備されたということがあって、個人の私有地となってもその公共性は残り、現在においても公園的性格は続いています。そういった歴史的性格を踏まえて今に至っているのではないかとか考えられます。

カテゴリ:平成30年度

投稿日:2019年03月11日